東京地方裁判所 昭和53年(ワ)9755号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
【判旨】
右認定の事実によれば、被告の本件土地の使用状況は、被告及びその長男裕が、いわば家族ぐるみで長年にわたつて洗染業に従事してきたこともあつて、従来同様あるいは少なくともそれと径庭のない程度の広さの洗染店舗、作業場及び染物干場を必要とするとしても無理からぬところと考えられること、また、被告は、昭和一二年から本件建物に居住し、かつ、洗染業を営んできていることから、地元顧客との関係は年々安定の度を高めて固定客も増え、地元周辺地域との結びつきもかなり強いものとなつていることが窺知できるのに対し、他方原告にあつては、そもそも当時は未だ大学を卒業したわけでもない長男のためにする親の希望があるという程度のことにすぎない事情が看取できるものであつて、不動産業は、その職種からみて、ある程度の実務的経験年数のほか社会人としての成長や人生経験の積重ねをも併せ必要とするのが一般であるのに、原告の長男が果して卒業後直ちに本件土地において原告希望のように不動産業を開業するものかどうか多大の疑問なきを得ないうえ、右の長男の希望の程度の程も定かでないことを対比して考えると、本件においては、原告において前記の異議を述べた際、被告の側の前記事情を凌駕するに足る現実的必要性、緊急性等を肯定すべき事情が原告の側に存していたものとはなし難い。
してみると、原告において異議を述べた時点においては、本件土地を使用する必要性等は、明らかに原告の側に比し、被告の側に大きく優るものがあつたものというべく、その他以上認定の事情のもとにおいては原告の右の異議について正当事由があつたものとすることはできない。
2 そこで次に、原告主張に係る本件土地中原告主張部分の被告への譲渡あるいは明渡料の支払等が、前認定の事実関係その他の諸事情と相まち、原告の異議につき正当事由の存在を首肯定させるに至るものかどうかの点を検討する。
前掲各証拠と弁論の全趣旨によれば、原告と被告とは、昭和五二年一月一日の本件土地賃貸借期間の満了の前後のころである昭和五二年の初めころから、本件土地の売買交渉をしたが結局不調に終つたこと、そこで原告は、本件土地明渡の調停申立てを渋谷簡易裁判所に行つたが、これも不成立に終つたので、本件訴訟を提起し、請求の趣旨記載の明渡料若しくは、それに相当するものとして、本件土地の一部を被告に対し提供譲渡する旨の意思表示を行つていることを認めることができ、右認定を左右すべき証拠はない。
以上の事実によれば、原告の被告に対する、本件土地の明渡要求の希望は強く、原告の態度にはそれなりの誠意のあることが認められないではないが、本件土地上の建物全体を収去の上本件土地全体の明渡しを求めるについて、原告が支払を申し出ている金二〇〇〇万円の明渡料は前段に認定・判示した原告、被告の各事情のほか地価その他の物価状勢をも併せみるにおいては、当裁判所をして、原告の異議に正当の事由があることを首肯させるに足りないものというべく、特に被告が長年にわたり培つてきた固定客筋を喪うに至るおそれの強いことをも併せ考慮するときは、到底正当事由を補強するに十分であるとはなし難いのである。
更に、原告が主張する各土地部分の被告への所有権の譲渡は、この部分において被告が従前からの洗染業を営むことができるとすればその限度において、本件土地上の建物を完全に収去して本件土地全部を原告に対して明け渡すことに比して、種々の点で被告の被るかも知れない不利益や不便の回避、緩和に役立つことは否定できないところであるけれども、長年にわたつて続けられてきた被告の洗染業の特殊性や家族と事業との一体性、作業場及び居住区域を存続させるために要求される残りの土地部分の面積・規模・元の形態・商店としての間口の広狭、本件土地上の建物の一部収去に伴う建物の改築あるいは増築とそのための不便・出費等々を考えると、当裁判所としては、やはり原告の側に存する前認定の程度にとどまる本件土地の必要性等のもとにおいては、被告に対する原告の前記土地部分の所有権の譲渡によつては未だ原告に正当事由ありとするに十分でないものと考えざるを得ない。
(仙田富士夫 生田治郎 高部眞規子)